上田 朝直 はすごいのだ。

大木戸 は 関所
ときがわ町 くぬぎだいら 大木戸

 

管理人も参加している、Salon de sucre

2016.7月は埼玉県比企郡ときがわ町

くぬぎだいらにある、鎌倉山荘にいってきました。

 

ここに、なぜか山に向いている門があるのです。

大木戸と呼んでいるそうです。

大木戸は、簡易的な関所のことなので、道に立っていなければ役に立ちませんが、実はその道の舗装の邪魔になるので移設したそうです。

 

ここは戦国時代の武将上田朝直の大築城へ続く大事な道だったんです。

大築城はちょうど真正面野山の上にあるそうです。

 

大築城(おおづくじょう)

 

大築城(おおづく城)

 

ときがわ町西平、椚平、越生町麦原にまたがる境標高486mの大築山の山頂に築かれた山城。
天正年間(1573~92) に北条方の武州松山城主上田朝直が築いたと言われる。
東西に六つの曲輪が並び山城としては規模が大きい
出曲輪として「もろどの曲輪」がある。

 

上田 朝直(うえだ ともなお)

 

上田朝直(うえだ ともなお)


武州松山城といえば、吉見町の百穴古墳のそばの小高い山全体が城になっていて上杉と北条との戦いの激戦場だったんだよね。
この松山城はいつ、誰が建てたかいろんな説があるんだけど、扇谷上杉朝定の家臣だった上田朝直が城主になってから戦国時代末期の攻防戦に巻き込まれていったんだ。


1.北条氏綱が扇谷上杉朝定の河越城を落とす。
2.扇谷上杉朝定が松山城に逃げる。
3.扇谷上杉朝定は氏綱の死後、北条氏康になると河越城奪還に動いたが、有名な河越夜戦で負けて、松山城に逃げた。
4.余勢をかって北条軍が松山城を攻め城主上田朝直は安戸の砦に逃げた。
5.ところが城に入った北条軍の塀和刑部少輔が守っていたが朝直は人数が少なかったのを見て岩槻城の太田資正に援軍を頼み奪還に成功。
6.ところが松山城には、太田資正の家臣が本丸に入り、朝直は二の丸に置かれてしまった。
7.その直後、北条氏がまた攻めてきたとき、朝直が寝返り落城、北条方の城になった。
8。朝直は本領安堵され、松山城主となった。
9.その後、上杉謙信が、小田原城を攻めたあとの帰りに松山城を攻め、朝直は脱出した。城主は岩槻城主太田資正が兼務した。
10.謙信が帰った年(永禄4年)の11月朝直の要請により北条軍3万で攻めるも敗退。
11.翌年11月、武田信玄と同盟した北条氏康により攻略により朝直の城となった。
12.その城を今度は上杉謙信と太田資正が攻めたが落ちず。北条氏の滅亡まで北条方の城となった。
13.上田憲定(のりさだ)が城主のとき、北条氏が豊臣秀吉に負け、城には松平氏が入ったが2代で廃城となった。

その生涯は城の攻防戦で明け暮れたんだろうね。 今はとても静かなところだけど、夏でもなんとなく寒いところなんだよね。